遺跡もあるよき住宅地 久が原さんぽ

お花見散歩

久が原を散歩しました。毎年池上に梅を見に行くのですが「今年は久が原から歩いてみよう」と。
久が原~池上、久が原~鵜の木と、2月のいい天気の中を歩きました。
自分にとっては、ゴールの鵜の木は、祖父母が住んでいた町。そして、久が原には祖父の親類が住んでいたらしく、ちょっとだけ関わりのある町です。

久が原は、有名人も住む高級住宅地。駅前の商店街は、池上線沿線の町らしく親しみやすさがあります。

弥生時代の住居跡もある土地柄らしく、昔も今も住みやすそうです。

  • ひとりごはんポイント★★★☆☆ 
    久が原駅前で、満足なひとりごはんを堪能。店の数は多くはないかも。
  • トイレポイント★★★☆☆
    久が原~池上、久が原~鵜の木、駅の周辺以外は、コンビニすら少ない。

久が原駅

久が原駅

東急電鉄の昔からの駅って、改札とホームの間に、数段の小さな階段があるのが多い気がします。

パン小屋 ヒュッテ(Hutte)久が原のベーカリー

まずは、久が原駅近くで、ひとりごはんができそうな道を探します。

久が原駅前に、ひっきりなしに人が入っていくお店が。
山小屋風の店には、パン小屋ヒュッテとあります。

国産小麦や天然酵母など、材料にこだわったお店で、店主が山好きのためこの名前がついたようです。
メロンパンとかおいしいそう!

モントレーブ キャトル(MONREVE quatre)久が原のベーカリー

また、おしゃれなお店が見えてきました。

モントレーブ キャトルは、これまた地元で評判のベーカリーらしい。
入口にベンチがあって、円形の玄関も素敵です。

マドレーヌがおいしいとか、サクサク系のパンがおいしいなど、口コミ多数。
駅から出たばかりなのに、もう2件目のベーカリー。

ランチのお店探し中なので、残念ながら通りすぎます。

ライラック通り久が原

久が原駅前の商店街の名は、ライラック通り久が原
街灯も銀のプレートも上品でした。

商店街のホームページに、商店街の歴史がくわしく書かれています。

久が原は、電鉄会社により整然と区画整理をされた土地になり、昭和の初めに少しづつ店舗が出来て、昭和8年に商店街が創立されました。
昭和のはじめからある商店街なのですね。

平成5年に、道路や街灯のリニューアルや、ライラックの植栽をし、商店街の呼び名を公募。ライラック通りの名前が付いた、と書かれています。

達筆な看板と元気な植木の愛知寝具店。よく見ると、売られている座布団の上に、アンパンマンとバイキンマンが乗っていました。

手仕事ショップ・フォレスト 蒲田切子の販売

ライラック通りの中に、蒲田切子の看板が。
仕事ショップ・フォレストは、オリジナルブランドの蒲田切子を中心に、江戸切子、日本の手仕事品を扱う店です。

お店の入り口には、地域関係のパンフレットもたくさん置かれていました。手にしたアート ビー ハイヴには、散歩に役立つ情報満載でした。

くがはら小町 久が原でひとりごはん

ライラック通りに、気になるお店発見。
お寿司屋さんみたいだけれど、CAFE &BARとも書いてある。
ランチメニューはポトフとおでん。
なんだかランチによさそうなので、入ってみました。

お店は、カウンターとテーブル席。座敷もあるのですが、柱もシャンデリアも素敵。
カウンターの店主さんに聞くと、ここは三代続いた寿司店で、今は違う形で営業しているそう。

ランチのおでんが来ました。
おでんもおいしかったし、ごはんにちょっと載っている赤いの(魚の卵?)や、小さいケーキも嬉しかったです。

久が原は有名人も多く住むお屋敷町で、花屋と和菓子屋と美容院の多い町だったという話も、店主さんから聞けました。

いろいろなお話も聞けて、満足なひとりごはんになりました。
その後も、ひとりごはんの女性がやってきました。

ライラック通り久が原

雄美堂書店。たばこも売っている本屋さん。

レジのそばに、大好きな山本文緒の文庫本と並んで『大田区観光』が売っていたので、喜んで買いました。
大田区観光協会が,2023年に作った本なんだけれど、これはよい!わかりやすくて、おしゃれ感もあり、くわしいです。23区みんながこんな本を作ったらいいのに。

和菓子の風月堂。お屋敷町にたくさんあったという和菓子屋さん。
カステラが美味しい店みたい。

交番の前に柳の木。
この交番は、昭和24年に、ライラック通りの商店街の方たちが、地元の人たちと作り、柳の木を植えたそうです。大事な交番だな。

久が原の崖線の道

この交番のところで、道が五差路になっています。
きれいに区画整理された久が原の、区画整理されてない方に向かって歩きます。

久が原は、呑川が作った崖線と、多摩川が作った崖線にはさまれた台地の上にあります。
区画整理されていない部分には、きっと崖線の凹凸地形があるはず!

植木屋さんが作業中のお屋敷。塀も立派。

木が豊かな庭と塀のお屋敷を通過。道幅が広いです。成城もそうでした。

久が原小学校の前の道は、ゆるやかなカーブ。
この久が原小学校には、久が原小学校内遺跡という3万2千年前の大田区内最古の遺跡があります。縄文土器も弥生土器も出土したそうです。

散歩後に『大田区古地図散歩』で昭和3年の地図を見ました。昭和3年の地図でも、この道やライラック通りなど、久が原の道は、今とほとんど変わっていません。しかし、人家のマークがあるのはこの辺だけ。昭和3年の久が原では、崖線沿いの道がくねくねしているこのあたりに、人が住んでいたようです。

久が原東部八幡神社

八幡神社にやってきました。

宮坂(みやざか)がいい感じですが、行く方向と違うのでがまんがまん。

これはまた豪華な衣装の狛犬さん。

さらに、くねくねな道を進みます。

「久が原特別出張所下」交差点と庚申塔

交叉点に出ました。信号機には、「久が原特別出張所下」とあります。

交差点近くの庚申塔。交通の要衝だったのでしょう。

地域情報誌くがはら55号には、「久が原小学校の周りに5つの庚申塔がある」と書かれていて、この庚申塔も載っています。

インターネットには、「旧久が原の東西南北4つの入り口に庚申塔があった」と書いている方がいました。昭和3年の地図では、ここから東は、建物の気配なし。このあたりが旧村入口だったのかもしれません。

池上梅園に向かって歩きます。崖線エリアを抜け、区画整理されたエリアになります。
工場と事業所、住宅が入り混じった地域です。

遺跡もあるよき住宅地 久が原さんぽ

久が原湯です。
大田区特有の黒湯の天然温泉として数十年、の老舗銭湯です。

「散歩の途中で銭湯に行ったらどうだろうか」と思いつつ、なかなか実行できずにいます。
髪かわかすこととか、考えてしまい。
大田区の黒湯は気になっていて、丁度いい気候の時にチャレンジしたいです。

久が原湯

「大田区初の健康増進型銭湯」
(高濃度人工炭酸泉)
ドイツでは古くから「心臓の湯」として知られ、国内でも多くの医療機関で血流障害の治療に役立っています。
他には「黒湯天然温泉」もあります。
男女共、スチームサウナ無料、遠赤外線サウナ200円。

大田浴場研究会ホームページより引用

呑川(のみがわ/のみかわ)

呑川を渡ります。

大田区に来ると、必ず出会う呑川。

ウィキペディアによれば、桜新町あたり水源に、大岡山を通り、大田区石川町、雪ヶ谷、久が原、池上、蒲田を流れて、糀谷を抜けて東京湾に注ぐ。
昔牛が落ちて水を飲んでしまうことがあったのが、名前の由来だと言われる。

最近よく行く大田区は、池上と蒲田なので、必ず出会う気がしているみたいです。

池上梅園

池上梅園につきました。
池上駅から久が原駅まで、池上線で戻って、今度は久が原駅から鵜の木駅まで歩きます。

久が原駅西側

次は、久が原駅西側に出ました。多摩川線鵜の木駅を目指します。商店街から踏切りをみたところ。
トントロ50円の文字が踊り、ごく庶民的な商店街です。

環状八号線が見えてきました。

鵜の木幼稚園の手前を左に曲がります。

歩き出すと、すぐに鵜ノ木八幡神社に到着。1489年創建と伝わります。古いですね!
天明五郎右衛門光虎が下野国 佐野から移住した際に、一族の守護神として八幡大神を祀ったそうです。
若い女性が一人で手を合わせていました。

鵜ノ木八幡神社の前の道が、すごくよい。保存樹木がバンバンあるこの道は、どうみても古い道でしょう!
またもや、『大田区古地図散歩』を見ると、明治39年の地図にすでにこの道がある。
久が原駅近くの白山神社を通って、鵜ノ木八幡神社を通る道がしっかり描かれていました。

多分多摩川が作った崖線の上を通る道。
現代の地図では、細いこの道は埋もれそうになっています。

おしゃもじ様

おしゃもじ様ってなんだろう、と覗き込むと、四角い石がありました。由来は「石神(せきじん)」が転じて「咳神」となり、咳が治るという信仰を集めたそうです。
奉納されているのは「しゃもじ」。なんとも不思議な神様です。

昭和のくらし博物館

昭和のくらし博物館は、旧小泉家住宅の中に、昭和のくらしや文化がわかるものを展示した博物館です。今回の散歩では立ち寄らなかったのですが、以前に訪問しました。

小泉家の住宅は、昭和26年に東京都の建築技師であった小泉孝氏が家族のために建てたもの。家の中には、娘さんたちのお人形なども展示され、職員の方の説明も聞くことができました。

物資が乏しい時代に、小さいけれど、隅々まで工夫が行き届いた住宅でした。鍵の形や、窓枠など、自分の祖父母の家の記憶がよみがえって、興味津々で見学しました。

鵜ノ木八幡神社の近くから坂道を下り、環状八号線を越えます。
暗渠になっていますが、江戸時代、この地域に水をもたらした六郷用水も越えます。

そのあと、また坂を上ると、こんな素敵な住宅地が広がっています。同じ台地の上には、光明寺などお寺も多いです。住所でいうと、鵜の木一丁目になります。昭和3年の地図には、富士見の地名があり、すでに人家が多かったことがわかります。

鵜の木駅に向かって、坂を降ります。かなり急。

鵜の木駅周辺

鵜の木駅東側の亀屋万年堂。

鵜の木駅の近くには、鵜の木デパート会平和会という二つの商店街があり、ともに「全国鵜の木まつり」に参加しているのだそう。
全国には、秋田県、岩手県、宮崎県、鹿児島県など14か所に「鵜の木」の地名があるそうです。

ちなみに、ここ大田区鵜の木の地名の由来が、大田区ホームページにのっていました。

『新編武蔵風土記稿』によれば、「鵜ノ木村は荏原郡の南にあり、村名の起こりは村内鵜ノ森明神の社あるによれりと土人は云えり」とあります 。

社 がどこに存在したか定かではありませんが 、この一帯は昔、鵜が多く棲み 着き、緑豊かな森があり、「鵜ノ森」とよばれていたことからこの地名がついたと考えられています 。

大田区ホームページより

どこだかわからない鵜ノ森明神の社・・・
知りたくなります。緑豊かといえば、今日歩いてきた鵜の木一丁目や、鵜ノ木八幡神社のあたりなのでしょうか?

駅舎は新しくなりましたが、町の感じは、祖父母の家があった40年以上前とそんなに変わりません。
お店が、わちゃっとある感じもそのままです。

鵜の木駅の西側です。

今日歩いた久が原は、昭和初期には耕地整理が終わって住宅街になっていましたが、鵜の木駅の西側は田が広がっていました。多分六郷用水の水を使っていたのでしょう。
鵜の木では、まわりの地域より遅れた昭和10年代に、中流むけ住宅地を目指した耕地整理が進み、住宅地となっていったようです。

祖父母の家は、こちら側で、まっすぐな道の3つ目の角を右に曲がったところにありました。まさしく、中流向け住宅地の真ん中だったと思います。
その頃は、駅西側の多摩川まで続く平らな町が、鵜の木だと思っていました、

親類が住んでいたらしい久が原と、40年前にはよく来ていた鵜の木。どちらの町も、崖線の作る良い景色と、駅のそばのフレンドリーな商店街のよい町でした。

タイトルとURLをコピーしました